瞑想法や呼吸法のクラスに行くと、教えをといてくれる先生がいる。
そしてうっとりしている生徒たちがいる。私もそんなふうに話してみたいと思うけど、全くもってできない。なぜなら自分は教えをとけるほどできた人間じゃないと思うからだ。
もうちょっと柔軟にとらえて、教えっぽい話やいい話をやってみればいいのだけど、どうしてもできない。考えるほどに苦痛になるのだ。
それで決めた。説法はしない。むしろ必要ない。そんなことをしなくても瞑想法を共有することはできるのだ。いやするのだという決意。
瞑想クラス=良い話を聞ける心あらわれるようなクラスというイメージがあるだろうけど、上記に書いたとおり、私の瞑想クラスはそんなことない。もう本当に淡々ともくもくと自分と向き合っていく。慰め合いもはない。だが誰も否定もしない。ありのままの自分の心を知りにいくだけだ。苦しい感情を助けてくれる人は誰もいない。だが、苦しい感情の理由を一緒に探す仲間ができる。
ところで私は、この瞑想クラスで気づいてなかった良い点を見つけた。それは、”依存しない”関係を保てるということだ。
心のこと、特に苦しみを伴うこことなると、どうしても人に助けを求めたり決定権を委ねたりしたくなる。そこまではまだいいかもしれない。でも上記のような状態を自分から招いたのに、結果が悪いと相手に責任を持たせるのはよくない。さらによくないのは、そうしていることに自分で気づいてないことだ。これがある特定の、人や空間の中で定着すると依存に変わるのだろう。
じゃあどうしたらいいのか?それに気づくには、まず自分が他者にどうしているかを知ることだ。人の話を聞いてその人の悩みを解決しようとか、アドバイスしようとするのをやめてみることだ。相手から求められていないのに、自分が誰かの人生を操作する発言をやめることだ。そうすると、いかに人を操作したい欲が自分にあるかがわかる。それに気づいて自分の至らぬところが見えると、今まで見えてこなかった依存の糸が見えてくる。
有の瞑想は、実践するにあたり自然とそうざるをえない空間になっていた。それがなんともシャンティーな空間を作っていたような気がします。
オンライン瞑想クラスの経過に伴い、私は皆さん一人一人の変容に気付かされた。
最初は、自分の悩みをどうやって解決するか?という”外向き”に求めている意識(依存に近い)が、最後は私はどのように考えているのか?という”内向き”に求める意識(自分軸)に変わっていった。私は、その変化を2回目から実感していて、とても驚いた。(どうやって実感できるかはめちゃくちゃ簡単だ。しかし、それをここに書くと次回から参加する人に答えをだすようなものだから、ここではふせておく)同時に、有の瞑想のプロセスがとても有意義なことを実感したのだ。本当にすごいんだから。
ところで有の瞑想の最終回は、無の瞑想含め、瞑想実践をしていく。その瞑想は、いつもと変わらぬ瞑想に(外見上は)見えるかもしれない。だけど、集中の高さは全く違うのだ。心の使い方も全く違うのだ。目をあけると普通世界だけど、目を閉じるといつでもどこにでもいけるようになるのだ。もちろんやみくもにやっている感じはない。
これは、ここまで心をよく観察してきたからこそできることだ。なんの情報もなく瞑想をしていたら、ずいぶん長い間たって気づくことだと思う。修行者においては、そのプロセスも大切だ。プロセスの最中に他の修行を昇華させるヒントがあるからだ。だけど、このコースを学んでほしい人は修行者ではない。学んでほしいのは、社会に共存しながら生活をしている人たちである。
有の瞑想、無の瞑想
この2つの瞑想法がより多くの方に伝わっていきますように。
ॐ