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マインドフルネス実践に役立つ仏教を学ぶ 四聖諦にみる、苦しみの正体

マインドフルネス実践に役立つ仏教を学ぶ 四聖諦にみる、苦しみの正体

誰かに雑に対応されたような気がして、なんだかモヤッとした。

うまく流せなくて、そのことがしばらく胸の奥に残ってしまう。

そんなこと、ありませんか。

私自身、これまで何度もこの感覚に出会ってきました。

こういうモヤモヤは、できることなら早く手放してしまいたいものです。

けれど、マインドフルネスでは、それを無理に消そうとはしません。

考えて解決しようとするのでもなく、まずは「観察する」。

いま何を感じているのか。

何を嫌がっているのか。

何を求めているのか。

そこに気づき、少し距離をとって眺めてみます。

でも、ここでひとつ疑問が生まれます。

ただ観察することが、なぜ苦しみをやわらげることにつながるのか?

その背景をたどっていくと、マインドフルネスの根にある仏教の考え方が見えてきます。

今回は、その中でも「四聖諦(ししょうたい)」を手がかりに、苦しみがどのように生まれ、そこからどう離れていくのかを見てみたいと思います。

四聖諦という、心の地図

四聖諦は、お釈迦様が悟りをひらいたあと、最初に説いたと伝えられている教えです。

人が経験する「苦」と、その原因、そして苦から離れていく道筋を、4つの視点から示しています。

  1. 苦があることを知る(苦諦)
  2. 苦が生まれる原因を知る(集諦)
  3. その原因が静まれば、苦も静まることを知る(滅諦)
  4. そこへ向かう実践の道がある(道諦)

私が四聖諦を面白いと思うのは、「苦しいなら前向きに考えよう」という精神論ではなく、苦しみには条件があり、その条件を丁寧に見ていこうとしているところです。

「いま何が起きているのか」

「なぜ苦しいのか」

「何が静まれば、この苦しみも静まるのか」

そして、

「そのために、どのような道を歩むのか」。

とても順序立てて考えられているんですね。

4番目の「道諦」では、苦から離れていくための道として「八正道」が説かれます※1。

その中には、いま起きていることを注意深く観察していく実践も含まれています。

マインドフルネスは、単なる気分転換やリラックスの方法ではありません。

自分の中で何が苦しみをつくっているのかを、実際の経験を通して見ていく実践でもあります。

なぜ「観察すること」が大切なのか

ここで、最初の問いに戻ります。

なぜ、自分の心を観察することが、苦しみから離れることにつながるのでしょう。

私はこれを、ガラスの筒にたとえることがあります。

透明な筒の中に、砂や土、大小さまざまな石が詰まっているとします。

そこへ上から水を注いでも、途中にたくさんの詰まりがあるので、水はそのまままっすぐには流れません。

石にぶつかったり、土に染み込んだり、いろいろな方向へ流れながら、ようやく下へと抜けていきます。

この「水」を、私たちが日々経験している出来事だと考えてみます。

私たちは、起きた出来事をいつもそのまま受け取っているわけではありません。

心の中には、それまでの経験からつくられた記憶や思い込み、期待や恐れ、「こうであってほしい」「これは嫌だ」といった、さまざまなものがあります。

それが、筒の中に詰まった砂や石です。

たとえば、誰かの返事が少しそっけなかった。

起きた出来事は、それだけかもしれません。

でも、そこに、

「大切にされていないのかもしれない」

「嫌われているのかもしれない」

「もっと丁寧に扱われるべきなのに」

という、自分の中にある記憶や期待、判断が重なっていく。

水が石にぶつかって流れ方を変えるように、ひとつの出来事が、自分の中にあるものを通ることで、怒りや不安、悲しみへと大きくなっていくことがあります。

では、瞑想では何をするのでしょう。

筒の中に手を入れて、石を無理やり取り除こうとするわけではありません。

まず、

「ここに石がある」

と気づいていきます。

「あ、私はいま傷ついている」

「認めてほしいと思っている」

「この不快感を早くなくしたがっている」

そんなふうに、自分の中で起きていることを観察します。

気づいたからといって、その石がすぐになくなるわけではありません。

大きな石が残ったままのこともあれば、何度も同じ場所で水が引っかかることもあります。

けれど、

「これは現実そのものだ」

と思っていたものが、

「これは私の中で起きているひとつの反応なんだ」

と見えるようになる。

すると、石と石の間に少し隙間ができるように、出来事と自分の反応との間にも、小さな余白が生まれてきます。

その余白があることで、いつもと同じ反応を、そのまま繰り返さずにすむことがあります。

そして、ときには、小さな砂が流れたり、ひとつの石の位置が変わっただけで、それまで滞っていた水が、思いがけずすっと流れ始めることもあります。

瞑想では、何かを無理に変えようとする前に、まずそこにあるものを見る。

私は、「観察すること」が苦しみから離れていくことにつながる理由のひとつを、そんなふうに捉えています。

筒に詰まっているもの——三つの渇愛

では、その筒の中に詰まっているものを、仏教ではどのように考えているのでしょう。

四聖諦の2番目「集諦」では、苦が生まれる原因として「渇愛(かつあい)」が説かれます。

渇愛とは、単純に「欲を持ってはいけない」という話ではありません。

「こうなってほしい」

「これはなくなってほしい」

「この状態が続いてほしい」

というように、経験を自分の望む方向へ強くつかもうとする働きです。

伝統的には、大きく3つに分けて説明されます※2。

① 感覚的な欲望

おいしいものを食べたい。

心地よく過ごしたい。

楽しいことを続けたい。

こうした欲求そのものは、とても自然なものです。

問題になるのは、快さそのものではなく、

「これがなければ嫌だ」

「もっと欲しい」

「失いたくない」

と強くつかみ始めたときです。

望んだものが得られなかったり、得たものを失ったりすると、そこに苦しみが生まれます。

② 存在の欲望

認められたい。

成功したい。

ちゃんとした人でいたい。

大切に扱われたい。

何かを成し遂げたい。

人生を前に進めていくうえで、こうした願いを持つこと自体が悪いわけではありません。

ただ、

「こういう自分でなければならない」

「人からこう見られなければならない」

という強いとらわれになると、思い通りにならない現実との間に苦しみが生まれます。

冒頭の「雑に対応された気がしてモヤッとする」という出来事も、じっと見ていくと、

「私はもっと大切に扱われるはず」

「ちゃんと認めてほしい」

という気持ちが隠れていることがあります。

私自身も、ムカッとしたり、不安になったりしたあとに自分の心を眺めてみると、その奥にこうした欲求があったことに気づくことがあります。

③ 非存在の欲望

もうひとつは、不快なものをなくしたい、ここから逃れたい、という方向の欲求です。

嫌な感情を消したい。

失敗した自分をなかったことにしたい。

この状況から逃げたい。

怒りや悲しみ、不安などが強いときほど、私たちは「感じたくない」「消えてほしい」と願います。

けれど、マインドフルネスでは、そこで少し違うことをします。

消そうとする前に、

「私はいま、これを消したがっているんだな」

と、その反応そのものに気づいてみる。

すると、「嫌な感情」だけではなく、「その感情をなくしたがっている自分」という、もうひとつの動きも見えてきます。

「なりたい」と「なくしたい」は、同時に起こる

興味深いのは、

「こうなりたい」という存在の欲求と、

「こんな自分はなくしたい」という非存在の欲求が、

同時に存在することがあることです。

「認められる自分になりたい」

と思う一方で、

「認められていない自分は嫌だ」

とも思っている。

表と裏のように、2つが一緒に動いているんですね。

私自身、しんどい時期から少しずつ立ち直っていく中で、自己否定が小さくなるにつれて、「認めてほしい」という気持ちも以前ほど強くなくなっていった経験があります。

何かを必死に否定しなくなると、反対側にある「何者かにならなければ」という力も、少し緩んでいく。

ガラスの筒のたとえでいえば、ひとつの石だけが単独で詰まっているのではなく、いくつもの石や砂が互いに支え合って、流れを止めているようなものなのかもしれません。

ひとつの反応に気づくことで、それとつながっていた別の反応も少しずつ見えてくる。

そして、その全体が見えるようになると、少しずつ水の通り道も変わっていきます。

365日の実践から見えること

毎日ご一緒している365日ヨガメディテーションでも、日常の中に小さな「とらわれ」が現れることがあります。

たとえば、連休などでいつもの練習に参加できない日。

本当は一日休んでも何も問題はないのに、

「毎日続けなければ」

「今日も参加したかった」

「休んでしまって大丈夫かな」

と、一瞬心がきゅっとなることがあります。

大切なのは、その気持ちを「持ってはいけない」と否定することではありません。

「ああ、私はいま、続けることを大切にしているんだな」

「休むことに少し不安を感じているんだな」

と気づくこと。

そして、

「今日は休む」

と自分で選べるようになることです。

反応に押されて行動するのではなく、自分で選ぶ余白が少し生まれる。

日々のマインドフルネスの実践は、こうした小さなところに表れてくるのだと思います。

おわりに

「苦しみには原因がある」と頭で理解することと、瞑想の中で、自分の心が何を求め、何を拒んでいるのかを実際に見つけることは、まったく別の体験だなと思います。

でも、四聖諦という心の地図を一枚持っていると、

「いま私は何に反応しているんだろう」

「何を欲しがっているんだろう」

「何をなくそうとしているんだろう」

と、自分を見るための視点が増えていきます。

次に目を閉じて座るとき、何かを変えようとする前に、自分の中で起きていることをほんの少し眺めてみてください。

石を無理に取り除かなくてもいい。

まずは、

「ここに、こんな石があるんだな」

と気づくところから。

それまでひとつに見えていた「苦しさ」の中に、いくつもの思いや反応があることが見えてくるかもしれません。

そして、その気づきが、いつもの反応とは違う道を選ぶ、小さな余白になっていきます。


※1 四聖諦のうち「道諦」は、苦の滅に至る道についての真理であり、その具体的な道として八正道が説かれます。その中の「正念」は、身体・感覚・心・法を観察する四念処の実践と深く関係しており、現代のマインドフルネスの重要な源流のひとつです。

※2 仏教では、苦の原因となる渇愛を「欲愛(感覚的な快楽への渇愛)」「有愛(存在・生成への渇愛)」「非有愛(非存在への渇愛)」の三つに分類する伝統があります。